震災で壊滅した近所のコンビニが復活して営業を再開した。それを見ながら「いつまた津波が来るかもしれないこんな危ないところでよくやるもんだ」と妻と話した。
そう話した直後、自分たちは働くどころか、その近くに住んでいることを思い出し「自分のことは見えないもんだな」と笑ったのだった。
震災で壊滅した近所のコンビニが復活して営業を再開した。それを見ながら「いつまた津波が来るかもしれないこんな危ないところでよくやるもんだ」と妻と話した。
そう話した直後、自分たちは働くどころか、その近くに住んでいることを思い出し「自分のことは見えないもんだな」と笑ったのだった。
先日、杉浦くんと食事をしたとき、学生の言葉遣いが話題になった(杉浦くんは教師なのだ)。あるとき学生が「そこまで電圧は高くなかったんですけど」と言ったという。そこで杉浦くんは「そこまでって、どこまで?」と聞くと、学生はきょとんとしていたという。無理もない。
しかし杉浦くんの言いたいこともよくわかる。私も「そこまで」と言われると、「そこ」がすでにその話の前に基準が示されたかのように聞こえるのだ。実は私が初めてこの用法に接したのは、卓球王国の編集部員である渡辺くんと話したときだ。「○○はそこまで強くないですけどね」と言われ、まさしく「そこまでって、どこまでよ?」と思ったのだ。しかし話の流れから、これは従来の「そんなに」「それほど」と同じことを意味する新しい用法なのだと分かったのだった。
「そんなに」「それほど」は事物を指示する度合いが弱いが「そこまで」は指示する度合いがより強いので、基準を示していない場合に使うのはおかしい、というのは旧世代が新世代を否定するためにひねくり出した屁理屈にすぎないのだ(誰もそんなこと言ってないけど)。
「そこまで」は、「そんなに」「それほど」とまったく対等だ。違和感があっても我らに正義はない。認めるしかないのだ。
論理性すらない「きもい(気持ち悪い)」「なにげに(何気なく)」「天然(天然ボケ)」などよりよほどマシな新語ではないか。