幽霊タクシーの論文

被災地でタクシー運転手たちにインタビューをして彼らが会った幽霊について聞いた話をまとめた卒業論文があるという。

指導をした教授によると、幽霊を見ることよりも幽霊現象を通して生死観、死者との向き合い方を考察することが主題だという。

それならそれで、幽霊話はがあくまで作り話か錯覚であることを論文に添えるべきだろう。私はまだその論文を見ていないが、そうなっていることを願う。

そうしないと生死観などすっ飛んで幽霊の実在論というとんでもないテーマに足を踏み入れることになってしまう。

「夏なのにコートとマフラー姿でタクシーに乗ってきた女性」という話ひとつとってみても、マフラーやコートにも霊があるのかとか、となると廃棄処分にされた衣類や自動車、そもそも石ころや各種原材料などにも霊があるのかという大問題につきあたる。

人間の目ではっきり見える幽霊なら当然ドライブレコーダーや監視カメラにも映るはずだから、その検証も可能だろう。

その辺の与太話や井戸端会議じゃあるまいし、いやしくも大学生が教授の指導のもとに論文を書くのに、これほどの大問題にかすっておきながら「そこは問題ではない」では通らないのだ。

さて、論文はどうなっているのだろうか。読むのが楽しみだ。

幽霊タクシーの論文” への 15 件のコメント

  1. ディズニーランドの楽しさを語りあっている人に対して「お前、あのミッキーマウスって中に人が入ってるんだぜ!わかってんの?」というつっこみはあまりしないと思いますが、今回の“論文”の趣旨もそれに似てるのかな、という印象を受けました。(論文を見てはおらず、ヤフーの記事を読んだだけですが。)

  2. 幽霊が実在するかが主題になると面白いのですが、生死観などは人それぞれですし論じて何になるのだろうと思ってしまいます。
    被災地でタクシー運転手が出会った幽霊とのことですが、統計がとれるほどの件数だったのでしょうか?
    そもそも何を根拠に幽霊と判断したのか疑問です。
    タクシーには乗せてないけど幽霊っぽい怪しい人を見ただけかもしれません。
    目的地に着いて支払いの際にドアを開けてないのにいなくなっていたとかでしたら幽霊だと思うかもしれません。人間だろうが幽霊だろうが運転手からしたら料金を踏み倒されたことになりますが。
    どうしても死生観などよりそっちが気になりますね。

  3. 幽霊とか霊とかが、存在しているという証明も、存在していないという証明もなされていないので、難しいテーマですね。霊が存在していないならば、大多数の宗教は誤りですし、存在しているならば宗教を否定している人たちは間違っていることになるのかと思われます。その問題がはっきりしていないので、憲法において、信教の自由、主義、思想の自由が尊重され、保障されているのだと思います。
    一大学生が、東日本大震災で亡くなった方々に対して、意識と関心と想いを寄せて調査して、作り上げた論文でしょうから、それなりに評価してあげてもいいのではないかという思いになります。ただ、もっと多くの数の調査をして欲しいなと感じます。

    1. 存在するという主張と存在しないという主張は対等ではなく、有ると主張する側に証明の義務があります。
      ないことは証明できませんが、あることはたったひとつの証拠を示せば済むからです。
      ですので、証拠が出るまではないと考えるのが妥当です。

      難しいのは、信じている人、信じたい人たちにそれを納得させる必要があるのかどうかです。
      放置すれば霊感商法などのインチキに騙されますし、教えれば憎まれますので、そこが難しいと思います。

      1. 一応、人間の意識の実在性も証明不可能なはずで、アーサー・ケストラーは“機械の中の幽霊”と形容していたと思います。しかし、私は、意識は証明なしに実在が自明だとしか思えません。先験的観念性としてアプリオリに前提する他ないものとしていたかも知れません。科学のデータは経験的実在性なわけですが、経験的実在性が可能になるには経験主体である先験的観念性が必要なわけですが、先験的観念性は科学の網にかからないシロモノですね。科学的に証明できないような実在するものもあるわけくで、ハイデガーは、例えば悲しみなどもそれに属する、と主張したりしています。まぁ、ここまで掘り下げると、もう、哲学の土俵での議論になっちゃいますが

        1. あ、カントは先験的観念性として、と書いたつもりで、カントが抜けました

  4. そうですね。霊感商法しかり、神仏を信じさせてお賽銭、お布施などを出させる宗教も同じですね。神仏(かみほとけが)が存在しているのか、証明もしていないのに、信じさせてお金を出させるのは詐欺であるとして、ソ連をはじめとした共産圏では、多くのキリスト教の牧師、キリスト教信者、仏教徒は、強制収容所送りになりましたね。難しいところですね。

  5. 条太さん、こんにちは。
    ご自身被災地に身を置かれている今回の論文然り、
    どうしても感情に流されがちな問題に対しても
    あくまで「理詰め」で迫っていくご姿勢、
    いかにも条太さんらしいな、とその都度感服する次第です。
    自分は葬儀など、宗教的な「慰霊」の儀式に参列する際には
    亡くなった方の「御霊」ではなく、
    生前のお姿に思いを馳せ、その人生に敬意を表する姿勢で
    臨んでおりますが、条太さんにおかれては
    そうした場には、どのようなお心持ちで
    臨んでおられるのでしょうか?
    とまれ、一種社会的な問題もやはりお有りでしょうし、
    「宗教」や「霊」の問題に接することを
    完全に避けることは難しいとお察ししますが、
    今後とも、納得・得心のいかないことには
    あくまで簡単には流されない有られかた、
    頼もしく思い、見習わせていただきたい次第です。
    長文失礼致しました。

    1. 私は神仏は人間が作った妄想だと思っていますので、まったく尊びませんが、
      儀式とは関係なく常々祖先に思いを馳せては厳粛な気持ちになっています。
      息子の名前は曾祖父からとりましたし、それは当時まだ存命だった祖母を喜ばせるためでした。
      私は、祖先や先人を敬うのにオカルトを信じる必要はないわけです。
      しかし、そうではない乱暴者にはオカルトを信じさせることで恐怖による見せかけの道徳を身につけさせる必要があるといえばそうなのかも知れません。

      1. リチャード・ドーキンスも「神は妄想である」と言って、そういう題名の本を出してますね。サンタクロースはいないとか、クリスマスを否定したりして、実の娘から嫌われたりしているようで、笑えます。ドーキンスには、意外に、おっちょこちょいなところがあるのかも知れません。利己的遺伝子というのも変な表現です。遺伝子には自我意識なんてないので、利己も利他もないはずなんですが。←翻訳が悪いのかな。

  6. 被災地の幽霊話の論文は、民族学的なフィールドワークに属するので、幽霊の存在の科学的論証は不要なのだと解釈しておりました!

    1. 論文を読んでいないのでなんともいえませんが、書き方によりますね。
      霊魂が実在することを前提とする論文なのかどうかで違うと思います。前提とする内容なら、当然論証が必要ですし、そうではないなら不要と思います。
      「幽霊を見た」と言っている人たちの証言を鵜呑みにしているのかどうかです。

      1. まぁ、柳田国男の研究みたいなものかと!柳田国男も幽霊の実在の証明などしてなかったと思いますが、学問として成立してますよね。

      2. あと、幽霊体験の報告も心的現象論の対象として捉えれば問題なさそうにも思います。

  7. まぁ、幽霊の実在可能性を科学的に考察するのも、勿論、面白いことだとは思いますが!

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