ちょっと前、東北地方で地震があったときに、津波注意報が出た。通常、津波注意報は画面の右下に出るものと決まっているのだが、そのときやっていた番組で、たまたまその位置に顔が出続けた人がいた。
一瞬、改造人間か何かかと思ってギョッとしたが、気の毒なことであった。これもまた地震の被害者のひとつの形であろう。たいした被害ではないが。
メーカーのお客様相談室に電話をする前にネットで調べたら解決した。
缶についているプルタブを起こすと、缶の中にあるヘラ状の部分が具をすくい、缶を時計回りに回すと具が口に入る仕組みらしい。そういえばプルタブが左右非対称だなと思ったのだった。
気が付かなかったのが悔しい。それで本当に具が口に入るかどうかはわからないが。
ただ、石川さんからいただいたコメント「地球の自転に関係がある」だの「南半球では反時計回りに回すと具が上がってくる」という説は間違いなく妄言なのでお考えを改めて今晩はお休みいただきたい。
先月、実家方面でお酒を飲む機会があったので、普段は車で行くところを新幹線で行ってきた。
最寄りの駅は水沢江刺駅だが、駅構内にいろいろとアピールがあって面白かった。中でも面白かったのは「胆江地域ハリウッド計画」だ。
何年か前にNHKの大河ドラマ「炎立つ」の撮影がこの近くで行われたことをきっかけに、何事かをやらかそうとしているらしい。といっても、この展示はかなり前からあるのだろうし、特に何も起きていないので胸をなでおろした。
ハリウッドとは関係ないが、同じ構内に日高火防祭の神輿の模型が飾ってあった。昔からこの地域で行われる祭りで、火防祭というだけあって、火事を防ぐことを願った祭りだ。
私は小さい頃からこの祭りを見ていたので特に疑問を持ったことはなかったが、あらためて考えてみると、こんな着物を着て灯篭を灯した神輿などを担いだりしたら、火防どころかわずかに火事の危険が高まるなあ、などと無粋なことを思った。長い歴史の中で、この神輿が燃えてしまったなんてことはないのだろうか。
『ヤングマシン』のイラストについて友人と口論になったときのことを補足しておく。
そのとき私が言ったのは「いくら写真のように描けても、それで飯が食えるのはごくわずかだ。技術だけではなくて、何を書きたいかとか、何を表現したいかとかそういう特別なものがなかったらダメ。現に私はこの程度の絵なら描くことはできるが、他に何もないので全然どうにもならない」ということだ。卓球に例えれば、綺麗なフォームでフォアロングが200本続けられて素人からはすごいすごいと言われるけど、大会ではさっぱり勝てないということだろうか。
絵についてそのような考えに至ったのは、中学校のときにテレビで見た『やまねずみロッキーチャック』というアニメだった。その背景があまりにも見事だったのだ。普通ならそこで感激して「俺もやろう」となるのだろうが、私の場合は違った。自分が美術の時間に何日もかけて描いている絵より数段見事な絵が、たった数秒のアニメの背景に使われていることにショックを受けたのだ。「ダメだこりゃ。こんな人たちがいるのに絵なんかやったってまったく見込みがないじゃないか」と思ったというわけだ。
まあ今にして思えば、このアニメの背景を描いた人たちはやっぱりそれなりの天才たちだったのだろうが、当時の私はそうは思えなかったのだ。
先日、テレビで映画『そして父になる』を見た。
私は映画を見て涙が出たことは今までに2回しかないので、我ながら冷たい人間なのだろうと思っている。2回とは『シンドラーのリスト』とテレビドラマ『ルーツ』だ。泣いたといっても目の中で滲んだ程度だ。今回の『そして父になる』で、3回目の涙が滲む経験をした。
映画を観る前に結末を知りたくないという人がいるが、カリフォルニア大学の研究によれば、結末を知っていた方が作品を楽しめるという。
そのメカニズムは、あらかじめ結末を知っていた方が、作品に対する理解が深まり印象が良くなるためと推測しているという。
私も、音楽や芸術作品は解説や批評を聞いてから味わうとより感動する(というより、解説がないとほとんど理解できない)し、結末が決まり切っている水戸黄門の人気が絶大だったり、トリックものでも刑事コロンボが何度見ても、見れば見るほど面白いことを考えれば納得がいく。
そういうわけで『そして父になる』については結末も書いてしまおう。
病院で男の赤ちゃんを取り違えれられた夫婦が息子が6歳になってから知らされ、交換するかどうかを悩む話だ。主人公の福山雅治は高級マンションに住むエリートサラリーマンで、普段から仕事優先で子供に接する時間が少ない。悩みながらも交換しようと考えるが、自分とは対照的に貧しく卑しいながらも温かい相手の父親(リリーフランキー)との対比や、時々子供に貸していたカメラに寝ている自分の姿が何枚も撮られているのを偶然発見し(ここで滲んだ)、息子が普段どれほど寂しい思いをしていたかを知り、血のつながりの有無以前にそもそも自分はまともな父親ですらなかったことに気づくという話だ。それでこのタイトルなのだ。
映画の結末では、交換するのかしないのかは明らかにされないが、福山は6年間育てた息子を心から抱きしめる。
さすが賞をとった映画だけある。しかも驚くべきは子供たちの演技の自然さだ。いったいどうしてこうも他の映画と違うのだろうか。まるですべてアドリブで隠し撮りをしたとしか思えない自然さだ。
是枝裕和、恐るべし。
先日、久しぶりに会った親戚の叔母さんから、拙著『ようこそ卓球地獄へ』に対するお褒めの言葉をいただいた。
ただ一点、苦言を呈されたのは「絵、もう少しちゃんと描けないの?中学校の時と同じじゃないのよあれじゃ」ということだった。
マンガなど読まない70近い叔母さんにしてみれば、あのような絵は単に雑でふざけて描いているようにしか思えないのだろう。雑に描いていることは否定しないが「いえ、あの絵がいいっていう人もいるのであれでいいんです」と言っておいた。
まあたしかにこれはひどいかもしれない。
ちなみに、下の絵は私が18歳のときに官製はがきに描いてバイク雑誌に投稿したイラストだ。
バイクになど興味がなかったが、クラスメートが持ってきた『ヤングマシン』という雑誌のイラストコーナーにあまりに感心しているのを見て嫉妬した私が「そんなの俺でも描けるよ」「じゃ描いてみろよ」という経緯でその雑誌に載っていた写真を見て描いたものだ。
評者から「メカがぼけてる」と評価されたが、バイクのメカなど知らないのだから当然である。そこがわかったところがさすがバイク雑誌のイラスト批評家だと妙に感心したものだった。
そいういうことで、今卓球王国で私が描いている絵は「仮の姿」なのだ。まいったか。
至上命題についてもう少し考えてみた。この言葉はすでに広く誤用されているから、誤用が定着した後でそれに追従して使う人は仕方がない。問題は、誤用を始めた人たち、つまり中学校の数学でこの言葉を習ったはずの年輩の人たちにある。
彼らが誤用に至る過程を考えてみた。
それはこうだ。中学校の授業で「命題」という言葉を習ったが、意味は良く理解できなかった。しかしその漢字から、なんとなく「使命」と「課題」が混じったようなものではないかと感じられた。
人は誰でも難しい言葉を使って他人から賢いと思われたい欲求があるので、命題を「使命を帯びた課題」と言う意味で使ってやれというわけだ。「命題」という言葉の勇ましくかつアカデミックな感じがそういう人たちを引きつけたのだ。
たとえて言えば、数学で習う「次元」を、何か高級な言葉のように思い込んで「水谷の卓球と他の選手の卓球とでは次元が違う」と誤用するようなものだ。おっとこれはたとえではなく実例だった。
たとえて言えば、相手を信用させるために物理学の用語である「波動」を使って「あなたの背後霊から良い波動が感じられます」と言うようなものだ。おっとこれも実例だった。
たとえて言えば「体積」を「体育の成績」と誤用し「勉強はできなかったけど体積だけは良かった」と言うようなものだ。さっぱりカッコよくないが。あるいはアカデミックという言葉を「赤っぽい」という意味に誤解し「うーん、この絵はアカデミックなところが良いですねえ」と言うようなものだ。
とまあこのように、話に箔をつけたいだけのデタラメな人たちが、意味も分からず学問の用語をメチャクチャに誤用するという恥ずかしいことが公然と行われているのだ。
その結果、私の大学の先輩など、研究室で真面目に「宇宙波動プラズマ」を研究しているというのに、他人からは必ず怪しい研究だと思われるという被害に合っている。
今や「波動」は、もはやオカルトの人たちに完全に乗っ取られてしまったのだ!なんとも気の毒なことである。