<卓球王国2011年10月号より>
あなたの潜在力は眠っている
元全日本チャンピオン・五輪代表
Rika Sato
子どもの時から運動神経には自信があって、卓球に限らず、実際に見てイメージしたら、どんなスポーツでもできる自信があった。私自身が天狗になっていた。
京浜女子商業高(のちの白鵬女子高)に入学後、卓球部の近藤欽司先生(元全日本監督)にその“天狗ぶり”を見抜かれた。「この子には人一倍努力させなければいけない」と先生は直感したのだと思う。常に一番苦しい練習、トレーニングを課せられた。そこで自分も初めて、他の人と同じことをしてはダメなんだ、プラスαのことをやらなければ強くならないと感じるようになった。そこが卓球選手として初めて「変えた」部分であり、近藤先生によって「変えられた」部分だった。
そして高校2年で全日本チャンピオンになり、その後、世界選手権ドルトムント大会(89年)に初出場したが、「今のままの卓球ではダメだ」と大きなショックを受けた。それまではラリー志向の卓球で、国内では勝っていたが、世界という舞台では決定打がないと勝てない。つまりミス待ちの卓球ではなく、自分から得点を狙う卓球を目指さないと勝てないことを痛感した。
サービスからの3球目攻撃を仕掛ける、バックハンドドライブからの回り込みの攻撃で得点を狙う、フラット打法とスピンをかける打法を使い分ける、というように卓球を改造していくことに挑戦した。
当時は、私のような両面に裏ソフトを貼り、両ハンドドライブを使う女子選手は国内ではほとんどいなかった。つまり国内に自分の手本になる選手はいなかったので、中国選手などを参考にしながら自分の卓球を作っていくことに挑んだ。
高校3年の春、ドルトムント大会の直後から卓球の改造に取り組み、社会人になってからはバックを表ソフトにしたのだが、自分の特長のバックドライブがなくなり、結局は1、2カ月で裏ソフトに戻した。プレースタイル同様、いろいろな用具も試しながらの試行錯誤。結局、そういう時期が2年間ほど続いた。すべてに迷っているわけだから試合では勝てなかった。
しかし、あそこで変えていなかったら、私はただ単に国内で勝てるだけの選手で終わった。2年間の低迷期から救ってくれたのは、夫の佐藤建剛だった。相談相手になってくれて、こうすべきだ、とはっきり言ってくれたので吹っ切れた。22歳という早い結婚だったが、常にアドバイスをもらえるということで、自分を変えて、成長していける大きな助けとなった。
プレースタイルでは、フォアの連打をできるようにして、トレーニングを取り入れ、体を強化することでパワーもつけた。それによって一球一球のボールの質が変わり、戦術も変わっていった。2年間の低迷の後に、全日本選手権で決勝に進み、星野美香選手には敗れたが、「変えた」手応えを感じた。その後、国際大会でも陳静(チャイニーズタイペイ・五輪金メダリスト)、喬紅(中国・世界チャンピオン)、リ・ブンヒ(北朝鮮)という世界のトップ選手などにも勝つことができ、大いに自信がついた。
高校3年でプレースタイルを変えていなかったら、自分の卓球人生も違うものになっていただろう。「変える」ことはリスクがあり、一時的に低迷する危険性がともなうが、将来を考え、「変える」ことに挑むことが大切なのだと思う。
現在、中学・高校(明徳義塾)の指導をしているが、選手を「変える」ことも指導者にとっては重要な仕事だ。たとえば、天野優(サンリツ)という卒業生がいる。高校2年のインターハイの県予選で、彼女は団体・単複で負けた。それまではしんどい練習ができない、こちらの言うことを聞かない子だったが、予選落ちしてから素直さが出てきた。
選手にとって、負けることはとても重要なことだ。負けたことが「変える」ための分岐点になるからだ。誰だって勝っている時は苦いアドバイスに耳を貸さないものだ。
ところが、選手が負けて悔しくて落ち込んでいる時は、選手を変えるチャンスがある。指導者は、「選手が負けた時こそ変えられる時期」と心得ていれば、ただ叱るだけでなく、選手を変える言葉を発することができる。
長い目で見れば、勝って得ることよりも、負けて得ることのほうが多い。これが指導者として気づいたことだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
佐藤利香[元全日本チャンピオン・五輪代表]
高校2年時の昭和63年全日本選手権で、史上最年少優勝を飾る。92・96年五輪日本代表。現在は、高知・明徳義塾高校の女子監督として活躍
ツイート