<卓球王国2003年10月号より>
【ピンポン外交50周年】
vol.5〈最終回〉
Chuang Tsetung
四人組とともに失脚、そして投獄。
のちに復活した荘則棟が帰るべきところは、やはり卓球だった。
さらに、佐々木敦子との大ロマンス。
荘則棟の生き様はジェットコースターのように激しく上下しながら、
まるで壮大なドラマのように展開していく。
インタビュー・写真 ● 今野 昇
通訳 ● 杜功楷
周恩来、毛沢東が相次いで亡くなり、江青(毛沢東夫人)を中心とする極左グループ「四人組」が逮捕されたのは1976年。四人組に加担したとされた荘則棟は4年間投獄され、その後も北京に戻らず、山西省で審査を受けていた。その間、80年10月から2年4カ月にわたって、荘則棟は山西省の卓球チームのアドバイザーとして卓球の現場に戻った。そのコーチの甲斐あって、山西省チームは力をつけていく。
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技術アドバイザーとして関わっていた山西省を強くするために練習量を2倍にした、というのは強調した言い方で、実際にはいきなり練習量を増やしても選手の体がもたないので、少しずつ増やしていきました。かつ、きょうは7時間やったら明日は6時間に戻してとか、調整しながらやっていきました。
さらに、科学的に訓練することをアドバイスしました。最初に山西省の練習を見た時に、選手たちはうまく体を使ってボールを打っていなかったので効率が悪いなと感じました。それは山西省だけでなくて、当時は、体や足をうまく使わずに手だけで打ってしまう傾向が全国で多く見られたのです。
サービスに関しても、単調で長いサービスだけで短いサービスをあまり入れてないとか、攻める時もフォアハンドだけでバックハンドをあまり使ってないとか、練習する時も技術だけを重視してメンタルをあまり考えないとか、それら直すべき部分をいくつもピックアップして、選手、コーチに提案しました。
たとえば、最初に私は選手たちに「もっと中陣でプレーしてみましょう」と提案したら、監督さんに「何でこんなことをしなければいけないのですか」と言われました。「中国は前陣速攻という伝統があるのに、なぜ後ろに下がらなければいけないのですか」と聞かれたのです。私は荻村伊智朗さんや田中利明さんの卓球を研究していたので、前陣だけじゃなく、中陣、後陣でもプレーできるほうが、もっと全面的にいろんなタイプに対応できると思っていました。
私自身、前・中陣の両ハンド攻撃型でしたが、基礎として後陣に下がってもプレーできる技術を身につけていました。後ろでもできるということで私は前・中陣で安心してプレーできたのです。私は山西省の監督さんに「前陣でやることは間違っていないが、後陣、中陣での基礎がないと安心して前陣ではやれないでしょう」と説明して、監督は一応納得してくれました。
それ以後、練習の中で、選手たちはシューズが破れるほどに動き、ボールが早く割れるほど、強く打つ訓練を重ねました。
山西省の16歳以下のジュニアチームは、1980年以前はレベルが低かったのですが、私がコーチした1年後にレベルはかなり上がり、2年後には全国で準優勝するほどまでに力をつけました。
ジュニアだけでなく、一般の代表チームのレベルも上がって、全国で10位台後半だった女子チームが1年後には11位になり、2年後に全国で6位に上がっていったのです。
中国代表チームが83年の世界選手権の前に山西省に来て、山西省の選手を交えながらトーナメントのオープン大会をやった際に、山西省の選手が中国代表チームから多くの勝利を重ねるほどまでレベルを上げることができました。
私は、83年に山西省から北京に戻り、その後、本の執筆活動に入りました。『闖と創』を執筆、出版しました。その頃はパソコンはなかったので、下書きを書いて、その後清書。毎日、毎日、そういうように執筆活動をしていました。
84年からは北京の少年宮体育学校で卓球のコーチをするようになり、同時に北京市の農民の卓球チームや一般の労働者の卓球チーム、会社の卓球チームなどのコーチも頼まれ、その頃、私は結構忙しい毎日を過ごしていました。
仕事を持ち、社会復帰したのは北京に戻ってからのことで、山西省にいた時期は復帰とは言えないでしょう。山西省にいる際は仕事をしながら審査(保護観察)されている状態だったのです。
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