<卓球王国別冊「卓球グッズ2009」より>
~知られざる用具秘話~
Koji Matsushita
全日本選手権4度優勝
世界選手権銅メダリスト
誰も通っていない道を松下浩二は歩いてきた。
期待と不安でいっぱいになった
1993年のプロ宣言。
信じたのは己の技術、
そして一本のラケットだった。
弾まないカットと弾む攻撃という
背反する要求をラケットに突きつけながら、
自身の名前の入ったプロモデルを作り上げた。
松下はそのラケットとともに
世界の舞台で戦い、ともにコートを去った。
写真=高橋和幸
「それまで名前入りのラケットは珍しくて、自分の名前の入ったラケットを見た時はうれしかった」と松下浩二は当時を振り返る。93年12月の全日本選手権で初優勝したあとに、レンズに自身の名前の入った『松下プロモデル』が作られたのだ。それはプロフェッショナルとしてのひとつの証(あかし)でもあった。
小さい頃は『ヤナギ』というラケットを使い、その後、タマスの『ディフェンス』というカットマン専用ラケットを使っていた松下浩二。また、卓球を始めた頃から両面裏ソフトだった松下は、高校3年のインターハイ後に、バックをツブ高に変えた。「どうしてもバックに来たドライブをカットで抑えきれなかったので、ツブ高に変えるしかなかった」。
その後、世界で戦うようになり、攻撃力を考えたうえで、タマスの『カトラス』を使い、93年にプロ宣言する前は『カトラス』の改良版とも呼ぶべき特注ラケットを作ってもらうようになった。何本か試作品が送られてきて、その中でグラム数や弾みが違うものの中から選んで最終的に決めた。
『松下プロモデル』はストレートグリップだが、グリップは短めだ。「グリップを短くしたのは高島(規郎・元世界3位)さんのアドバイスで、手首を使いやすくするため」「材質はカトラスとほとんど同じだったが少し弾むようにして大きさも少し変えた」。いくつかの要望を出しながら『松下プロモデル』は作られた。
『松下プロモデル』ができた後、そのラケットを2000年まで使っていたが、床や台にぶつけるために欠けて変形してきたのでスペアラケットに替え、現役を引退するまで使った。つまり、94年以降の15年間で彼が使ったラケットは2本だけだ。1本を8年近く使っていた。調子が悪くなってもラケットを替えることはしなかったし、ほかの人のラケットを握ることもなかった。自分の考えで作ってもらったラケットを信頼していた。いったん自分で決めてしまえば、それを信じて使い込む。もし調子が悪くても、試合で負けても用具のせいにすることなく、それは自分の心技体の弱さ、戦術の至らなさと考えるようにしていた。
フォア側の裏ソフトは『タキネス・DRIVE』から『タキファイア・DRIVE』と替えたが、常に「皮付きスポンジ」を使っていた。スポンジを焼き上げる時に、鉄板と接しているスポンジ面が熱で皮のように硬くなったものが「皮付きスポンジ」である。打球感も硬いので攻撃選手が好むスポンジだったが、松下はあえて皮付きを選んだ。「軟らかすぎず、硬すぎず、皮付きスポンジの硬さがちょうど良かった」。それは、プロとしてのこだわりだった。40mmボールになった後は「フェイント・LONGⅢ」をバック側に貼り、薄だったスポンジを超極薄にした。
より弾性のすぐれた、またはコントロールのすぐれたラケットを求める攻撃選手と違い、現代卓球で勝ち抜くカットマンというのは、スピードと回転が増している相手の攻撃球をカットで返す技術と、攻撃の時には得点を狙えるようなパワーボールを打ちたいという矛盾した要求をラケットに突きつけることになる。もちろん「カットの時には弾まず、攻撃の時には弾む」という、そんな夢のようなラケットはできないのだが、守備性能と攻撃性能という背反する要求を1本のラケットの中に共存させ、どのレベルで妥協するのかを自分自身とラケットへ問うていく。
「カットだけを考えるなら弾まない材質のラケットが良い。でも世界という舞台に出た時には、特に男子では攻撃できないカットマンは苦しかった。そうなるとある程度の弾みはほしかった。弾まないラケットと弾むラケットという矛盾したものを求めていた。弾まないラケットでは打った時に飛んでいかない。だけど自分の中心はカットだから弾みすぎたらカットが狂う。そのバランスが難しかった」。世界という壁の前で、相手のドライブボールをカットで封じ、さらに攻撃球を打ち込むという戦術の狭間で、松下浩二は用具にも究極のバランスを求め、戦っていた。
世界のトップ選手の猛烈なドライブ球を床すれすれまで打球点を落としながら、切って返すフォアカット。上から下へ振り下ろす際にラケットが床とぶつかったり、こすれ合う。またストップ処理をする際も、後ろから走り込んで返す時にラケットは台とこすれ合う。サイドテープで保護してもラケットは欠けてしまうので、松下は暇を見つけては瞬間接着剤や木工用ボンドで木を張り直したり、表面の凹凸を修理した。欠けたり、削れたりして変形しても松下はラケットを簡単に替えることを拒んだ。ラケットを変えることで、体と手に染みついた守備と攻撃のバランスが崩れるのを怖れたのだ。
94年以降の全日本選手権での優勝、五輪での活躍、世界選手権でのメダル、そして引退までの道程で、松下浩二の右手に握られていたラケット。使い込まれ、変形したこのラケットは、卓球界のパイオニアとして走り続けたひとりのプロフェッショナルが、世界の舞台を見つめながら選んだ戦友と言える存在なのかもしれない。
まつした・こうじ
1967年8月28日、愛知県豊橋市生まれ。中学・高校で全国大会の決勝に4回進みながら、ライバル渋谷浩に敗れた。全日本選手権では4回優勝、五輪には4大会連続出場し、世界選手権では97年に渋谷浩との男子ダブルスで3位入賞、2000年には団体で3位に入賞した。2009年1月に現役を引退した。現VICTAS代表取締役社長
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現在、「松下浩二モデル」はVICTASで「松下浩二シリーズ」として継承し、販売されている
→VICTAS「松下浩二シリーズ」
https://www.victas.com/ja_jp/products/blade/shakehand_racket/defensive
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