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インタビュー

瀕死の事故から3年。兄弟で奇跡の全日本卓球複出場 -津村優斗・真斗

昨年(2021年)10月半ばのことだ。鳥取県在住の方から編集部宛にメールが届いた。その方の息子である兄弟ペアが、2022全日本卓球選手権 鳥取県予選を通過したという。兄弟ペアでの全日本出場自体は、何ら珍しいことではない。しかしそのメールを読み進めると、そこには想像以上のドラマがあった。

 

鳥取県鳥取市の津村家は卓球一家だ。祖父・憲儀(のりよし)はインターハイ出場経験があり、父・佳彦(よしひこ)は高校時代に卓球部に所属、そして息子3兄弟は祖父と父の影響で、子どもの頃からラケットを握った。長男の陸斗(りくと)が小学3年時に、全国を目指すことを目標としたチーム「明治ジュニア卓球クラブ」を、佳彦が創立。そして翌年、3つ下の次男・優斗(ゆうと)が小学1年時、さらに3つ下の三男・真斗(まなと)が3歳の時から、祖父と父の指導で卓球を始めた。津村兄弟が小学生の時に、明治ジュニアは全国ホープスに2回出場(陸斗6年&優斗3年時、そして優斗6年&真斗3年時=下写真)。また優斗は全日本カブ3位、真斗は全日本カブとホープスでベスト16と、個人でも活躍を見せた。

2013年全国ホープス大会入場行進での明治ジュニア・メンバー。前から真斗、従兄弟の高嶋蓮、優斗

優斗は島根・出雲北陵中時代には主力として全中団体準優勝に貢献。その後、高校2年の4月から地元の鳥取敬愛高に転入。同時に、真斗は中学2年から岐阜・長森中へ転入。富田高卓球部と連携して練習する環境で、兄に負けじと卓球に打ち込んだ。

しかし真斗が岐阜に移って半年後、18年11月に悲劇に見舞われた。ある夜、真斗は卓球部員が住むアパートの屋上を歩いている際、暗がりで足元が見えなかったため、誤って老朽化した天窓を踏み抜いてしまった。吹き抜けだったため、3階の屋上から地面まで、真斗は9mも落下し、全身を強打した。

「真斗が大怪我を負ったという連絡を受け、深夜に車で岐阜に向かいました。その一報の内容から、正直〝覚悟〟をしました。その後、道中で『少し落ち着いた』という連絡が入り、何とか一命は取り留めて欲しいと願いながら向かいました」(父・佳彦)

不幸中の幸いにして真斗は一命は取り留め、事故から3日後に意識を取り戻したが、首から下は動かず、自身の力で呼吸もできない状態だった。診断書には頭蓋骨骨折、頸椎骨折、頸椎損傷、気胸、その他、数多くの傷病名が並んだ。

「落下している最中の『あ、やばい』というところから意識がなくなって、気づいたら病院のベッドでした。体は全然動かせず、先生から『一生歩けないかもしれない。良くても後遺症は残るだろう』と説明を受けました。運良く回復したとしても、もう卓球はできないかもしれない。むちゃくちゃショックでした」(真斗)

受傷1カ月後(18年12月)の真斗。この時は少し手を動かせる程度だった。入院生活は富田のジャージで過ごした

しばらくして自発呼吸はできるようになったが、首から下は動かないまま。しかし真斗はリハビリを始め、少しずつ動かせる箇所が増えていく。「富田に戻りたい」。その一心で富田のジャージを着て入院生活を送り、リハビリに励んだ。その結果、2カ月で車椅子に乗ることができ、さらに5カ月後には日常生活には支障がない状態まで戻すことができた。担当医も驚く程の回復だった。

「ただ、指先の軽い麻痺や、腕を振ると簡単に鎖骨が外れてしまうことだけは完治できないと説明された。手術は心臓に近くてリスクが高く、五輪を目指す程でなければ勧められないと言われ、断念した。卓球はやりたかったけど、岐阜に戻って続けるのは無理だと諦めました。ただ、リハビリ中に看護師さんにお世話になる中で、看護師の仕事に就きたいと思うようになった。そのため、これからは勉強をしようと思った」(真斗)

こうして事故から7カ月で退院。その頃は走ることはできず、卓球は素人の温泉卓球程度だった。そして地元鳥取の養護学校に通いながら受験勉強をし、鳥取敬愛高に入学した。

勉強中心の生活を考えていた真斗だったが、鳥取敬愛高には小学時代のチームメイトである高嶋蓮がいて、真斗は卓球部に誘われた。

「迷った末に入部し、名子平将人監督やチームメイトは私に配慮してくれました。でも皆が長時間練習し、トレーニングに励む中、自分ひとりが少ししかできないのが申し訳なくなった」(真斗)

団体メンバーに入れそうなくらいまで実力が戻った真斗だったが、気持ちの面で辛くなり、半年で退部。その後は勉強中心の生活にシフトしていった。父・佳彦によると「ギリギリの合格だったが、その後成績が一桁台になった」という。

躍動感あふれるフォアドライブ連打が武器の優斗。写真は21年全日学

それから1年後、21年8月のある日のこと。関西大に進学し、1年時(20年)に関西学生選手権で優勝するなどの活躍を見せていた兄・優斗が、父に切り出した。

優斗「真斗と組んで全日本を目指すわ」
佳彦「冗談でしょ、鳥取でも真斗とでは予選突破は難しいよ」
優斗「いや、本気で狙うわ」

こうして兄弟ダブルスが誕生した。

「帰省して真斗の練習を見た時、思った以上に動けていた。これならチャンスがあるって思ったんです。福本さん(卓朗/優斗と同郷で関西大の先輩)と組んだ方が、本戦で勝てる可能性は高くなると思うけど、でもぼくは『絶対勝ちたい』っていうより、〝おもしろさ〟を求めるタイプ。真斗が岐阜で入院している間、1回も見舞いに行けなかった。最初は歩けないと聞いていてショックだったけど、奇跡的に回復した。そんな弟と組んで出たいと思った」(優斗)

その後、真斗は実家の卓球場で、父や卓球マシーンを相手に練習を重ねた。体力面と学業の忙しさから、練習は1日1時間がやっと。しかし一度は諦めた卓球で、再び挑戦の日々が始まった。

「組もうと言われてむちゃ嬉しかった。全日本に出るチャンスができるなんて思っていなかった。出るからには負けたくないと思った」(真斗)

現在の真斗は指先の軽い麻痺が残り、強くスイングすると鎖骨が外れるため激しいプレーはできないが、持ち味の丁寧につなぐ卓球ができるまでに回復した

こうして迎えた10月10日の全日本選手権鳥取県予選会。3年ぶりの試合に、緊張でガチガチの真斗。対する優斗は、初戦からリラックスして試合を楽しんだ。優斗が強力に引っ張り勝ち進む中で、真斗も調子を上げていく。そして決勝の相手は学生ペア。厳しい相手だったが、真斗が丁寧に繋ぎ、優斗が動き回ってドライブを決める。こうしてフルゲームの大接戦をものにして優勝。勝利が決まった瞬間、真斗は号泣した。「うれし涙です。誘ってくれたことにただただ感謝です」(真斗)。優勝の嬉しさ、兄への感謝、怪我から復帰までの辛い思い。ふだんはあまり感情を表に出さない真斗の頭には、様々な思いが溢れた。

全日本卓球選手権鳥取県予選で通過が決まった時の津村兄弟

年が明け、間もなく2022年全日本卓球選手権大会の本戦が始まる。初戦は超強豪、上江洲光志・坪井勇磨ペア(東京アート)との対決だ。(1月25日(火)17:10〜 31コートで試合予定)

「組み合わせを見た時は笑っちゃったけど、逆に楽しく試合をできると思う。まずは試合を楽しみたい。富田高の近藤琢爾監督には、予選通過の報告をしたら、『あれほどの怪我から全日本出場は奇跡だ。本当に良かった』と喜んでくださった。心配してくださったりお世話になった方々に感謝しながら試合をしたいですね」(真斗)

真斗は、兄・優斗についてこう語る。「何というか、バカですね(笑)。おもしろくて、優しい兄。性格は真逆です。ぼくは練習を真面目にコツコツやるタイプだけど、兄は真面目ではないと思う(笑)」。明るいムードメーカーで、何事もリラックスして楽しむ優斗と、真面目で几帳面、周りの空気を読んで慎重に行動する真斗。方や大物食いをするかと思えばコロッと負け、方や目標に近い無難な成績を安定して残す。戦型もイケイケの攻撃型と、手堅いラリー型。実に対照的な兄弟は、それでいて非常に仲が良い。

対照的なキャラクターながら仲の良い津村兄弟

事前に聞いていたドラマチックな経緯から、今回のインタビューではウェットなコメントを想像していたが、想像以上に本人たちの言葉は明るく、自然体だった。もちろん事故当時の津村一家は深刻な状況だったはずだが、今ではその経緯を明るく語れるまでになった。

何事も楽しむ兄と、負けず嫌いで逆境を乗り越える強い心を持つ弟。ふたりの良さが噛み合い、奇跡は起こった。全日本本戦ではきっと2人の最高の笑顔が見られるに違いない。

(文中敬称略)
文:高部大幹 写真協力:津村家

 

全日本直前の正月に自宅卓球場で練習する津村兄弟

津村優斗 つむら・ゆうと[関西大]
2001年6月13日生まれ、鳥取県出身。小学1年時に家族の影響で卓球を開始。小学4年時に全日本カブ3位。出雲北陵中3年時団体2位。鳥取敬愛高を卒業し、関西大では1年時に関西学生選手権優勝。現在、関西大2年。

津村真斗 つむら・まなと[REVIVAL]
2004年9月9日生まれ、鳥取県出身。兄・優斗と同時期に卓球を開始。全日本カブとホープスでベスト16。長森中2年時に事故にあい卓球を断念するも、21年10月の全日本県予選で優斗と組み男子複出場を決めた。現在、鳥取敬愛高2年。

「People 津村優斗・真斗」は卓球王国2022年3月号にも掲載しています。

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