<卓球王国2011年8月号より>
卓球のあらゆる方面で、「世界を変えた男」がいる。今は亡き荻村伊智朗である。1950年代に世界の頂点を極め、現役時代には世界選手権で12個の金メダルを獲得し、指導者として数多くのチャンピオンを育て、後にITTF(国際卓球連盟)会長となり、世界の卓球を改革した。
ITTF会長として着手したのは「卓球のカラー化」だった。それまで卓球台は暗い緑色で、ユニフォームも単色のものが多かったが、卓球台をブルーにして、フェンスもブルー、床にエンジのフロアマットを敷いた。ボールをオレンジにすることで白色の卓球ウェアもOKとして、デザインの規制もゆるめ、よりカラフルな方向に導いた。
さらに、賞金大会を増やすことで卓球のプロ化を促進し、プロ選手が生まれやすい環境を作っていった。
91年世界選手権千葉大会では、南北朝鮮による統一コリアチームを結成に導き、政治の世界でもできなかったことを成し遂げた。これはスポーツ外交官としての手腕で、卓球の存在意義を「変えた」快挙でもあった。また日本国内では、ドゥ・スポーツとしての卓球をより普及させるために「ラージボール」を作り、広めたのも荻村である。その時の改革が現在のラージボールの隆盛につながり、現在の日本の卓球界を支えている。
荻村は「卓球をメジャーにしよう」という情熱と決意で、メディアと一般大衆に強くアピールすることを心がけていた。現在の世界ランキングシステム、11点制ゲームなども荻村のアイデアを具現化したものだ。
選手としての荻村がそうだったように、世界卓球界の指導者としての荻村伊智朗ITTF会長は常に「改革」に努めた。「変化」と「改革」をしないことは彼にとっては「後退」を意味していたのだろう。87年のITTF総会で会長に選ばれた時が55歳。それから94年12月に62歳で亡くなるまでの7年間、改革を進めながら、まさに世界の卓球を「変える」ことで卓球という競技は発展していった。
それと引き換えに、荻村は自分の体が癌に冒されているのを知りながらも改革の手をゆるめず、いや、逆に自分に残された時間が短いことを知りつつ、改革のスピードを加速させ、卓球に捧げた生涯を終えた。
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