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伝説のプレーヤーたち 渋谷五郎「眠っている才能はいくらでも あるはずなんですよ」

1961年世界選手権での日本選手団。前列右端が渋谷、左から2番目が高校・大学のチームメイトだった村上輝夫。中国の周恩来首相(後列左から4番目)の姿もある

 

早く連続で打つことも大事だけれど、

まず目の前の一本で最高の

ボールを打てるかが重要だ。

 

第一線を退いた後、渋谷は八幡製鉄の社員として福岡で10年、名古屋で10年を過ごした。

後に日本で初めて、親子二代での全日本チャンピオンとなった息子の浩(平成11年度優勝)は、名古屋にいる時に卓球を始めている。まずは無理にやらせるのではなく、父親のプレーしている姿を後ろで見させた。浩は卓球より野球が好きだったが、いつしか自然と卓球を始め、そして父と同じカットマンを選んだ。

「あまり細かい指導はしなかったけど、小さい頃から浩に言っていたのは、カットであっても攻撃と同じように、意外性のあるプレーができないと勝てないということ。相手の計算どおりのプレーではなく、相手が計算できないようなプレーをしなさいと言っていた」

週末には浩とともに、地元の子どもたちを指導するようになり、その中には豊橋から通ってくる双子の兄弟、松下浩二と雄二もいた。その後、渋谷は東京へ転勤となり、助監督を経て1982(昭和57)年に母校・明治大卓球部の監督に就任。10年に渡って監督を務め、浩や松下兄弟も紫紺のウェアに袖を通すことになる。

渋谷が明治大の監督に就任した82年は、明治大が全日本団体で2連覇を達成し、全日本選手権の決勝を4年生の糠塚重造と2年生の齋藤清が争った、明治大の黄金時代だった。奇しくも自分と同じ9月30日生まれである齋藤は、渋谷が指導者として見てきた中で、最も強烈な印象を残した選手。「グリップが気に入らないと、ああでもない、こうでもないと削ったり、足したり、なかなか台につかない。その代わり、台についたら一球目から鬼気迫る集中力の高さがあったね」。

「今の卓球についてはあれこれ言えない」と言う渋谷だが、若い選手たちのプレーに送る視線は鋭い。トップ選手であっても、技術もメンタルも、まだまだ伸びしろがあるように感じている。

2月の関東学連のスウェーデン遠征では、大会前にオーストリアのヴェルナー・シュラガー・アカデミーで合宿を行った。

日本の選手たちは近年、フォアハンドも平行足で打つ選手が多くなってきているが、ヨーロッパの選手たちはかつての基本であった左足前でフォアハンドを打っていた。そして威力も安定性も、日本選手よりはるかに高い。

「早く連続で打つことも大事だけれど、まず目の前の一本でいかに良いボールを打つか、最高のボールを打てるのかが重要。そして返球された時の対策を、練習やトレーニングでやっていけばいい。そういうことから考えていくと、まだ日本の卓球はやるべきことがたくさんあると思う」

誰かに教わるのではなく、自分の目で見て、頭で考えて、自分のプレーを築いていった渋谷。卓球に関係がなさそうなもの、たとえば日本舞踊や剣術の動きからも、何か卓球に取り入れられることはないか。常にそういう視点を持っていた。自分の卓球の長所を最大限発揮していくためには、どうしたらいいのかを考えていた。

「人間には不思議な力がある」と渋谷は言う。

最初は恐る恐るラケットを振って、やっと相手のコートにボールを入れていた選手が、何も考えなくても簡単にボールを打てるようになる。ロビングだって、「何メートル打とう」と頭で考えなくても、感覚として空間を把握できるようになる。

「こんなことはできないだろうと思うことでも、やればできるようになる。人間の能力はやはりすごい。眠っている才能はいくらでもあるはずなんですよ」

変化を恐れず、自分の可能性を追い求め続けた10年の月日。

前を行く者はいない。後をついてくる者もいない。強烈な個性がぶつかり合った卓球ニッポンの黄金時代にも、渋谷五郎は唯一無二の存在であり続けたのだ。  (文中敬称略)

 

できないだろうと思うことでも、

やればできるようになる。

眠っている才能はいくらでも

あるはずなんですよ。

 

2013年に取材した時の渋谷五郎さん。穏やかな人柄で現役時代を語ってくれた

 

◉しぶたに・ごろう

1937(昭和12)年9月30日、秋田県生まれ。青森県で育ち、西田沢中時代に卓球を始め、青森高3年でインターハイベスト8。明治大2年時に全日本学生チャンピオンとなり、4年時の全日本選手権でシェークハンドの選手として初めて優勝。61年世界選手権にも出場した。現役引退後は明治大卓球部監督として、多くの名選手を指導した

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