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インタビュー

「私がアメリカのコーワン選手に会っていなかったら、歴史も私自身の将来も違っていたかもしれませんね」

1970年代始め、荻村伊智朗、木村興治、松崎キミ代、村上輝夫などと一緒に写真に収まった

敦子が日本に帰る時には

これで彼女と永遠に

会えないのではないかと

悩み、悲しみ、心配しました

 

 荘則棟は80年代はじめに離婚。その後、日本人、佐々木敦子と運命的な出会いをする。

 中国で育った佐々木敦子は71年、72年と荘則棟と日本で会っていたが、13年ぶりに中国で会い、二人は恋に落ちていった。日本の商社に勤め、当時北京に住んでいた敦子は荘則棟を支え、二人は結婚を決意するのだが、名前の知れた、「ふつうの人」ではない荘則棟との結婚は許されなかった。

 敦子のビザ延長は認められず、日本へ強制的に帰され、海を隔てて二人は引き裂かれてしまう。荘則棟と敦子はラブレターを交わしながら、運命の時を待つしかなかった。

 悩み苦しみ抜いた末に、荘則棟は当時、天津市長で中央政治局の委員だった李瑞環に相談する。李瑞環は卓球ファンとして70年よりも前から荘則棟とも親しく、のちに、中央政治局の常務委員まで上りつめていく有名な政治家であると同時に、中国卓球協会の名誉会長を務めている人物である。

◇◇◇◇◇◇◇◇

85年には恋愛も許されるようになりました。その年に私は佐々木敦子という女性と仲良くなって、つき合うようになりました。彼女が住んでいたのは北京の新橋飯店というホテルでした。ホテルのフロントの人は敦子のお兄さんが来ても鍵を渡さないけれど、私が行くと「どうぞ、どうぞ」というように接してくれました。

私がつらい時期、彼女が私を支えてくれました。

 

私たちが96年に出版した本のサイン会をした時に、本を買ってくれた人はだいたい50代から70代にかけての女性の方が多かったのですが、その時に彼女たちが敦子と一緒に話をして、感動を受けた様子だったのを覚えています。

会った当時、敦子には「どうしても中国で生活できないのなら日本に行って生活しましょう」とも言われたし、アメリカにいる友人たちにも、アメリカに来て生活してくださいとも言われたり、シンガポールに行った時にも同じようにシンガポールに住んでくださいとも言われました。

ただ、本の出版記念サイン会で全国を回った際に敦子に言われたことが、私の根本を言い表していたのかもしれません。彼女はこう言いました。

「やっぱりあなたのルーツ、源は中国なのよね」

 

敦子とは71年の名古屋大会で初めて会って、72年にも日本で会いましたが、それから85年までの13年間会ってなかったのです。

85年に敦子とつき合い始めて、結婚は法律的には許されていたので、具体的に結婚の手続きをしようと思ったのですが、その時に政府のほうから指示があって、「あなたは国の機密を知っているので、外国人との結婚は許されない」と言われました。

その時に敦子のお兄さんが日中平和友好協会の理事をしていたので、彼が中国側の中日友好協会の会長だった王震という人に手紙を書いてくれました。敦子さんのお父さんは1962年に中国のために尽くし、中国で亡くなった人だったので、王震への手紙では、「私たち一家は中国のために献身的にやっているのに、妹が中国の人と結婚することさえ許してもらえないのだろうか」というような内容を書いたのです。

 

王震がそれを読んで、結婚を許さないのは理にかなっていないと思い、彼は私たちの結婚に同意するという指示を出しましたが……。当局は、中国から追放するような形で敦子を追い出したのです。それは86年のことです。

外国人は1年に1回滞在ビザの申請をしなければいけません。敦子のビザは12月15日に切れるので、ビザ延長の申請を当局に出したのですが、拒否されたために否応なしに日本に帰国しなければいけなかったわけです。

当時、敦子が日本に帰る時にはこれで彼女と永遠に会えないのではないかと悩み、悲しみ、心配しました。その時に私は公安局とか、北京市の役所などに行ったのですが、誰も会ってくれなかったのです。中央の決定なので、誰もくつがえすことができなかったのでしょう。

 

仕方がないから私は天津まで行って、当時天津の市長だった李瑞環に会いに行きました。

彼は会うなり、「理にかなった話ならば私はあなたのために必ずやってあげるけれど、もし理にかなっていなければ助けることはできないね」と言いました。

その彼の言葉のあと、「私は結婚をしたいだけなのです」と言ったら、李瑞環は笑いながら「こういう時は、あなたを助けないと人権問題になりますね」と言いました。

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