中国で卓球は「国球」と呼ばれるほどに象徴的で、国民的スポーツであると同時に、50年代から国威発揚のための政治的なスポーツであった。60年代に輝かしい成績を残した荘則棟は、まさに中国人民におけるヒーローとしての道を歩み、その後、「ピンポン外交」では主役を務め、スポーツ大臣まで上りつめていった。その間、文化大革命の時には批判、迫害を受けた時期もあった。
しかし、スポーツ大臣の栄光から一転、投獄され、失脚した荘則棟は再び政治の舞台に戻ることなく、また卓球協会の要職に就くこともなく、平静な日々を過ごしている。政治的な様々な背景があるにせよ、彼は卓球人として復活した。2002年11月にはかつての女子の世界チャンピオン・邱鐘恵と『北京荘則棟・邱鐘恵国際卓球クラブ』をオープンさせ、その記念式典にはかつての僚友だった徐寅生、李富栄も駆けつけ、20数年ぶりに3人が顔を合わせた。
現在、妻敦子とともに平穏な日々を過ごし、卓球クラブで毎日、卓球愛好者と接している荘則棟。彼の話しぶりには人を惹きつける何かがある。常にオーラを放ち、カリスマ的な存在感を見せた彼の壮絶な生き様を語ってもらうのは到底1日や2日では無理なのだ。
世界の卓球史で燦然と輝く実績と、波瀾万丈な人生。まるでジェットコースターのようなスピードでアップダウンを繰り返し、60年間を駆け抜けた男だけが口に出せる言葉。そして国境を越えた大ロマンス――それはまさに壮大なドラマを見るような物語なのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その後、李瑞環は胡耀邦党書記のところに行き、二人一緒に鄧小平(共産党中央軍事委員会)主席のところに行きました。
鄧小平主席は私たちの結婚に同意してくれました。鄧小平主席は気持ちの大きい人物だったと思います。ただし、鄧小平主席が同意してくれているのに、それでもいろいろなことをして妨害する人はいました。
中国大使館が敦子と面接した時に二つの条件を彼女に出しました。「あなたが結婚することは許可されましたが、結婚する時に日本国籍を放棄しなければいけない。もうひとつは日本に帰る際に、荘則棟と一緒に帰ってはいけない。あなたひとりで日本に帰ること。だから慎重に考えて、結論を出してください」と言われました。
敦子本人はそれに同意して、中国に来て手続きをしました。その時はとてもスムーズに手続きができ、実際に私たちが結婚できたのは87年でした。そして、96年に執筆、出版した本の名前を『 鄧小平主席が私たちの結婚を同意し、推し進めてくれた』というタイトルにしました。
文章の大事なところ、読みどころというのは起伏が大きい場面ではないでしょうか。人生も同様なのです。紆余曲折は人生の最大の財産なのです。私は辛いことも経験して、良いことも経験した。振り返ってみれば、私の人生は辛いことのほうが多かったけれど、それが私の人生にとって大きな財産になっています。
過去に我々の国は左派、右派という政治的なうねりと動きがありました。良い時は天まで持ち上げるけれども、過ちを犯した時には地獄に堕ちるような仕打ちを受ける。これが私の人生なのです。
もし私が名古屋大会の時のバスの中で、アメリカのコーワン選手に会っていなかったら、歴史も私自身の将来も違っていたかもしれませんね。
中国には「人間万事塞翁が馬」という諺があります。
馬に逃げられた男がいて、馬をなくしたことは不幸なことだけれども、その馬が良馬を連れて帰ってくる。不幸が幸福に転じるが、幸福はまた不幸に転じていく。
人間というのはその時に良いことだと思ったことでも、必ずしもそれで幸せになれるわけではなく、それが不幸をもたらすこともあります。逆に不幸だと思ったことが幸福を呼ぶこともあるのです。
ふつうの人間のような生活ができなくて、天国に行ったり地獄に堕ちたりしたのが私の人生でした。ただし、今は平静を保っているし、平静というのが一番良いものです。
「繁華落下帰平淡 憶往夕風華正茂 看今朝夕陽正紅」
栄光があって、転落したあとに平凡に戻った。昔を思うと、当時の私には若さも能力もあった。今は夕陽のたそがれ時だけど、まだ私は赤く燃えているのです。
〈終わり〉
◎そうそくとう/ツァン・ヅートン
1940年8月4日、中国・揚州生まれ、北京育ち。61、63、65年世界チャンピオン。有名な中国とアメリカのピンポン外交(71年)での中心的な存在となり、その後、33歳でスポーツ大臣まで上りつめるが、76年の江青・毛沢東夫人ら四人組失脚とともに大臣を解任され、失脚した。2002年12月、北京市内に『北京荘則棟・邱鐘恵国際卓球クラブ』をオープンさせたが、2013年2月10日に逝去、72歳で生涯を閉じた
ツイート